第1層ー2 小さな農から見えてくる国のかたち

麦畑中に立つオイサギ

→ 前回の記事は「小さな庭もまた、ひとつの宇宙」

「国の要は農業」という言葉はよく耳にする。

農業は、政策や産業の話として語られがちだが、本来は、私たち一人ひとりの命にまっすぐ繋がっている。

どんな土地で、どんな作物が、どのように育てられているか?

それは、国の制度や施策の領域であると同時に、私たちの体と健康に、直接関わる問題でもある。


農業を「どこか遠い話」ではなく、「私の命の土台」として捉え直すために、視点を”庭先”にまで落としてみたい。

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庭先は宇宙との接点でもある

「私の庭」は私有地ではあるけれど、「完全な私有」と言い切れるものではない。

歴史を遡れば、土地の私有が制度として始まったのは、奈良時代の「墾田永年私財法」の制定とされ、法的に確立されたのは、明治時代の「地租改正』と地券の発行だと言われている。

本来、地球という場は、あらゆる生き物の命の場であり、分割して所有するようなものではなかったはず。

人の数が増え、生存競争が激化し、エゴが増幅していく過程で、土地を区切り、管理し、所有する社会が生まれた。

けれど、地球にとってはどうだろう。

私たちの暮らしの中では、日常的に、当たり前のように、木々を剪定し、草を刈り、家周りを整え、掃き清めている。

更に、手間を省くために、敷地をセメントで固めることもある。

その行為の一つ一つによって、昆虫や微生物たちは棲家を失い、土は、自然の環境から切り離されていく。


地球温暖化が叫ばれて久しい。

ここ数年は、雨の降り方や気温の乱高下、季節感の変化など、日常の感覚として実感するほどになってきた。

世界や国の政策に委ねるだけで良いのだろうか。

一人ひとりの「自然との向き合い方」個人の庭に、自然循環を取り戻すことの力。

「農」を体験すると視点が広がる。

知識としての「農」のあり方については、長年、興味を持ってきた。

ここ数年、家周りの木々や、庭先の小さな畑と継続して向き合ってみる中で、

知識が、「実感」として腑に落ちる瞬間が、いくつもある。

まず、生き物の土台が土壌にある、という事実を、実感する。

人間の体に当てはめるなら、それは「腸」に近い。

目には見えないけれど、”生”の基盤を支えている世界。

人の体も、土壌も、太陽や月、惑星、雨風といった気象条件など、宇宙のエネルギーの影響を受けながら、数多の命との関わりの中で生かされている。

自然界は、本来、そうした秩序のなかで循環している。

そこに、人が手を入れる余地は、本当にあるのだろうか。

すでに90億に近い人間が存在している以上、自然が自然のままであり続けることは、不可能だ。

だからこそ、人が生きている事によって生じる負荷を、少しでも小さくしようとする意識と努力は、必要なのではないだろうか。


国家単位での施策を動かすことは、容易ではないけれど、この瞬間に、費用もかけず、変化を起こせる領域がある。

それが、個人の意識と暮らしの選択。

個人の小さな庭に、自然の循環を取り戻すこと。

それは、
・地球温暖化という大きすぎる問題にも、
・食の自給率の問題にも、
・安心・安全な食をめぐる不安にも、

小さな波を起こすことができるのではないか。

そんな、淡い期待を持っている。

食料危機や健康不安を招く要因と土との向き合い

人類は、長い時間をかけて、ひたすら「利益の追求」に走ってきた。

とりわけ、この半世紀は、大量生産、大量消費を前提とした社会を築いてきている。

その結果、自然環境には大きな負荷がかかり、私たちは今、気候変動という明らかな危機の只中にいる。

大量の化学物質に依存してきた農業は土の生命力を奪い、自然循環の輪から遠く離れてしまった。

容易には戻れない。

人類は、どこに向かうのだろう。

ビルの中で育てる植物工場の野菜、完全養殖魚、人工肉、遺伝子組み換え作物など、次々と新しい技術が生まれている。

それらを、全て否定したいわけではないが、自然の循環とは全く別のフィールドに立ってしまった。

経済を主軸に据えた社会は、競争と分断を生み、人間中心主義の傲慢さのもとで、多くの生き物を、静かに駆逐してきた。

人類の存在は、この地球の中で、どんな意味を持っているのだろうか。

日本には、古来から、「自然と共に生き、その恩恵に感謝して暮らす」という感覚があった。

慎ましく、静かに生きると言う知恵があった。

時代の大きなうねりに、1人の力で抗うことはできない。自分の感性に従い、淡々と生きるしかない。

いま自分が生きている、この小さな場所に、自然の循環を少しづつを取り戻していく。

そのことに、ひたすら力を注いでみよう。

そこから、広がっていく世界を見てみたいと思っている。

入口としての「小さな農」

庭先で始める畑は、収穫も楽しみの一つではあるが、

それ以上に、日々の小さな気づきを得ることの静かな喜びがある。

プランターひとつでも、関係性は始まる。

種をまく。芽を出すまでの、あの少しの緊張感。日々の成長を見守る喜び。

思うようにいかない時の試行錯誤。収穫のときの、ささやかな達成感。

味わうことで生まれる、新たな気づき。

ほんの小さなフィールドも、 感覚には、多くの揺らぎがもたらされる。

畑を持つことでの変化は、さまざまあるが、まず天気を注意深く見るようになる。
晴れ、曇り、雨だけではなく、気温、湿度、風向き、風の強さ。

それらの一つひとつが、日々の暮らしの中で、意味を持ち始める。

やがて、旧暦の暦にも興味が湧き、手放せなくなっていく。

先人たちが、自然の変化を注視しながら積み重ねてきた暦には、気象の移り変わりを知るための知恵
とともに、たおやかで、美しい精神文化が宿っている。それは、不思議と心に染みる。

そして、意外なことに、農は、規則正しい生活と、論理的思考を要求する。

「農業は、最初の一年は紙の上で」と言われることがあるように、作物を育てるという行為は、自然農であっても、
”ほったらかし”では成り立たない。

緻密な計画と地道な実行力が必要とされる。

作物は、野生の植物とは異なり、人の食べ物として適した形になるよう、長い時間をかけて改良されてきた存在だ。

自然農は、”人工物ともいえる種”を、自然循環の中で育て、収穫する営みでもある。

その意味で、時間と手間のかかるやり方なのかもしれない。

作物を育てるという行為は、宇宙・地球・生き物との関係性を垣間見る、身近な体験でもある。

”小さな農”には、社会を変えるほどの力はないかもしれない。

それでも、身を持って体験することで、農業の奥深さは、確かに実感として立ち上がってくる。

農業携わる人々の苦労への理解が生まれ、農業施策や、社会の仕組みにも、関心が向くようになる。

いま、農に興味を持ち、実践している人が、
少しづつ増えてきているように感じる。

この流れが、
大きく育っていく事を願っている。

→ 次回の記事は「福岡正信「わら一本の革命」との出会い」

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