第1層ー1 小さな畑もまた、ひとつの宇宙

朝起きてガラリ戸を開けると、柔らかな光が差し込み、小鳥の囀り、木々の揺らぎ、小さな畑の緑・・・。

ただぼんやりと眺めている。

魂の時間。

数年前に、都会の生活から10代を過ごしたこの家に戻り、まず驚いたのは、この庭の生気のなさ。

四季折々の花々が咲き乱れていた場所には草も生えていない。

老木といえど、周辺の木々にも生気がなさすぎる。

住んでいる者もいて、一定の手入れはしていたはずなのに。どうしてこうも疲弊しているのだろう?

色々と考えながらも、小さな畑を造るべく作業を開始した。

自然循環の実験地。

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何が、この庭の生気を奪っているのか。

ある日、庭の手入れの様子を見ていると、丁寧に1本1本の草を根こそぎ抜きながら、小さな草はピンセットまで使っている。

それらをゴミ袋に入れ、落ち葉の1枚も残らないように掃き清める。

大きなゴミ袋が、あっという間にいっぱいになった。三袋。

ああ、これだ!

確かに整然としたある意味美しい場になった。やり切った爽快感が見て取れる。

ただ 、自分の体が、何も纏わず、太陽の光や雨風にさらされ、暑さ寒さも凌げないとしたらどうだろう。

土も我々と同じ生命体。

地上にも土の中にも、想像を絶する程の、小動物や微生物が生きている。

枯れ葉や枯れ草は土を覆い、陽の光を和らげ、風雨を凌ぐ小動物の隠れ家となるだろう。

土中の根が枯れてできた空気層は、微生物たちの命の場となる。

表層の枯葉や枯れ草は、時間と共に分解され、土へと戻っていく。

家周りを整えるという、人の暮らしの営みの陰には、もうひとつの世界が息づいている。

見えないものを見る想像力。

なぜ、土と向き合うことで、哲学が生まれるのだろう?

新鮮な野菜を食卓に添えたいという小さな思いも、土との向き合いの中で、自然という大きなフィールドに
引き込まれる。

見えない世界との格闘が始まる。

なぜ芽が出ない?
なぜ大きくならない?
なぜ虫や病気が発生する?
なぜ実がつかない?

ナゼナゼの世界に翻弄される。

庭先の小さな畑も、陽・月・雨・風・土・・・という宇宙の営みの中に組み込まれ、虫や微生物などとの関わり合いの中で、命を育む。

思い通りにならない世界。

見ること、
想像すること、
思索することに導かれる世界。

土と共に生きる人々が、ナチュラルに哲学的になっていく理由が、少しづつ見えてくる。

思い通りにならない世界を眺めながら、「土の栄養が足りない?酸性化している?」という常識だけは浮かんでくる。

石灰をまき、肥料を足すことで、ある程度好転することは想像がつく。

いやいや!私は何のために畑を作ろうとしているのか。

自然栽培や自然農の知識があっても、結果を急ぎたがるのが人の性。

畑がある=収穫 自然な流れである。

ただ、私には、「自然の循環」という心惹かれるテーマがあった。

何をすればいいのか・・・畑を前に、ただ見ている。

人が作物を作る。

「自然」と「人間が生きるための営み」の間にある、繊細な行為である。

人の暮らしと自然との間にあるジレンマ。

人の手が入らない自然は、どうしてあんなにも生命力に溢れ、美しいのだろう?

植物も動物も、あらゆる生物が生き生きと生きている世界。

そうした光景を前にすると、「人間は自然界にとってどういう存在なのだろう」と考えてしまう。

自然界はそのままで秩序を持って存在する生命体。人の手を加えるほどに秩序は乱れる。

11歳の時、照葉樹林帯の山に初めて分け入った。

その時の高揚感は、今でも忘れられない。

湧水が染み出した足元には、落ち葉が幾重にも重なる。

新緑の大木を仰ぎ、足元の野草に感嘆しながら、笹の葉を掻き分け掻き分け、頂上を目指した時間。

庭の手入れ後のゴミ袋を眺めながら、詰め込まれた小枝や、落ち葉、草などを、綺麗に掃き清められた場所に敷き詰めた。

社会の中で生きるには、他人に迷惑をかけないという視点も必要で、草刈りも、剪定も、家周りを整えるという
身だしなみのようなもの。

ただ、土を裸にしない、土の中には手を出さないという生き物の世界への小さな配慮は、やがて、人の暮らしにも変化をもたらす。

自然と人の暮らしの間には、相容れないジレンマが存在する。

「土の”豊かさ」を取り戻す生物の営み

私たちが暮らすこの地球は、時間と共にある自然の循環により成り立っている。

その循環の中心は土。

命あるものは、生まれ、育ち、結実し、老い、死ぬ。

そして、長い時間をかけて土に戻っていく。

小動物や微生物たちの働きによって、次の命を育むに十分な力を持って、土に帰る。

その過程は?

① まず、落ち葉や枯れ草などが地表を覆うと、土の中の生き物にとっての環境が整い、活動が活発化する。

② それらはミミズやダンゴムシ、ダニなど土壌動物の食べ物になって粉砕される。

③ 次は細菌や糸状菌など微生物の出番。さらに元の形が消えるまでに分解され、二酸化炭素と水として放出される。

④ このプロセスが進行していくことで、落ち葉などの成分が、土壌の栄養素へと変化し、そこにある土壌成分と混じり合い、栄養豊かな土壌を育てる。

この過程は、通常4~5年程がかかる。

土壌の豊かさを維持するためには、我々が、この自然の営みの邪魔をしないことが条件。

◉ 土の表面を裸にしない、落ち葉や刈草はそのままに堆積させる。

*腐食がある程度進んだところで切り返す(上下をひっくり返す、混ぜる)ことで一年程度で完熟させることにはなる。

◉草刈りは、土の上の部分だけを刈り取りその場に置く。土の中は、秩序正しく整えられた生き物の住まい。壊さない。これだけの事。

三年がたって、疲弊していた庭の”今”

明らかに生気のない木々と、疲弊した空気感を前に・・・どうしたらいいのだろう。

肥料を入れることしかないのだろうか?眺めるだけの日々から三年が経った。

昨年は、庭木の変化が著しく、驚く事も多かった。

大きな幹が割れ、残った葉もちぢれ、瀕死の状態だったハナミズキに、青々とした葉が戻り、大きな花を咲かせた。

ツツジ、サツキ、アジサイ、金木犀、百日紅、芙蓉、椿など、咲かなくなっていた木々に花が戻ってきた。

肥料も入れず、薬剤も撒かず、ただ、ゴミとなる木の葉を堆積していっただけ。

やはり、効果的だと確信するのは、土を裸にしないということだった。

落ち葉や、剪定せざるを得なかった”カシの木”などの葉を、捨てないで、その場に堆積させたことが大きい。

正味二年程の小さな心がけで、。ここまでの変化を見られるとは。

この春には昨年以上に、小鳥の声を聞き、蝶が舞い、花々が咲く様子を楽しむことができそうだ。

次は、菜園部分。

未だ十分な草が生えず、土の表面を草で覆うことができず、なかなか育たない。

一昨年の冬から春先まで、仕方なく、黒ビニールで覆ってみたが、やはり邪道であった。

春先の草芽がほとんど出なかった。

この冬は、畝の上に、カシの木の葉を敷き詰めた。

そろそろ、種まきの時期。草の小さな芽吹きも始まっている。

土を豊かにするには、収穫することよりも、まず、多くのタネを撒き続けることが肝心!

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