
自然と共に生きる農は、理想論ではない。
生涯をかけて実践し、示した人がいる。
福岡正信氏である。
私は、この人について書くことに躊躇している。
「わら一本の革命」との出会いや、
山を訪れた時の印象を軽く書く程度には書ける。
しかし、
「農」という柱をたて、
思索し、実践し、世に問うた人の
生涯に思いを馳せると、
生半可な理解では
踏み込めないものを感じている。
「農」の問題は、単なる農法にとどまらない。
それは、人間の存在そのものに関わる問いでもある。
自然農法の根底にあるもの
福岡氏の自然農法にかけた人生は、
25歳の時の
「人智・人為は一切無用である」という閃きから始まる。
この思想の成否を、「農」の実践によって確かめる人生。
小鳥の囀り、朝霧の煌めき、木々の揺らぎ、
自然界の森羅万象にこそ、
歓喜の生命が宿る。
まさに地上の天国という感覚には、
深く共感する。
しかし、
この感覚に人生を賭けたとも言える
純粋で強烈なエネルギーに
圧倒される。
それは、
人間の欲と正面から向き合うことにもなる。
何もしない農

福岡正信氏は、「何もしない農」を提唱した。
耕さない
肥料を与えない
農薬を使わない
除草もしない
近代農業の常識から見れば、
成り立たないように思える方法である。
しかし福岡氏は、
それらが本当に必要なのかを問い直した。
それは、単に放置するという意味ではない。
人間の不要な働きかけを手放し、
自然が本来持っている力に委ねる
というやり方である。
自然は、
人間がほんの少しでも手を加えると
その途端、全体が狂ってしまう。
そうして狂わせておいて放任すると、
自然の秩序が狂ったまま
バランスを崩したまま成長することになる。
一度バランスを崩したものは、
ひたすら対処を必要とする。
人間の場合にも当てはまる。
自然の力への信頼
自然は、人間が介入しなくとも、
自ら循環し、
バランスを保つ力を持っている。
人間が手を加えすぎることで、
そのバランスは崩れていく。
生きている土を殺し、
病態の作物を作るようになれば、
即効性の栄養肥料が必要になり
役立つように見えるのは当然である。
自然の土は、
自然に土を肥やし、
無肥料で作物ができる。
だからこそ、
「何もしない」という選択が生まれる。
田を鋤かなくても、
自然に土が肥えるような方法で
肥沃な土を作る。
肥料がいらないような健全な稲を作る。
そうして30年をかけて、
何もしないで作る米麦作りを、
収量も遜色ないものにしている。
それは、
人間の知恵のあり方そのものを
問い直す試みでもある。
自然農法はなぜ普及しない

福岡氏の圃場には、
世界中から訪れる人々ばかりではなく、
日本中の農業関係の人たちが
視察に訪れている。
自然農法は、専門の立場から見ると
間違いないものとして認知されるが、
それが、
組織の中で採用されることはない。
福岡氏の書かれたものや言葉には、
そのことへの焦燥が垣間見える。
なぜ普及しないのか?
自然農法が広がらない理由は
技術の問題ではない。
それは、現在の社会の仕組みと
根本的に相容れないからである。
自然農法は人間の生き方そのものへの問いかけである
福岡氏の自然農法は、
人間が自然とどう向き合い、
共存するのかという問いかけであり、
「何もしない」という能動的選択こそが
生き方への大きな挑戦とも言える。
「何もしない」とは、
何も考えないことではなく、
人間の在り方を問い続けることである。
それは、科学技術の否定であり、
西洋哲学の否定に基づいている。
社会の中では、
消費者は、形の整った、
少しでも綺麗な、甘味の強いものを要求する。
生産者は消費者の要求に応えるべく、
多くの薬品を使い、
粒揃いのものをさらに磨き上げ、
市場に流す。
既に、生命力は失われている。
一方で、無農薬だ有機栽培だと
要求はエスカレートする。
消費者の価値観が変わらない限りは、
農業のやり方も変わらない。
作物が食卓に上がる過程を
自分で確認することでしか
人には理解できない。
1反300坪で家を建て、
米・麦・雑穀、野菜をつくれば
5~6人の家族が食べられるという。
この地球上に生まれて生かされている
という現実のなかでは、
人間は、自然の力に縋って、
自然に仕えて生きる存在である。
いかに科学が進化しようとも、
自然を極めることはできない。
結局のところ、
この世界での自分の立ち位置が明確になってこそ、
何を食べて生きるかも決まる。
自然の力に沿って生きると決めたとき、
食べるものの基盤を、
自分の生活の中に持つことは、
ごく自然な流れなのかもしれない。
