吉野ヶ里町にある修学院と京都とのつながり。

「修学院」(しゅがくいん)といえば、京都の左京区にある地名で、平安時代に創建された寺院「修学院」(廃寺)に由来するとされている。

20年以上も前になるが、京唐紙の老舗「唐長」さんの工房を訪れたことで強く印象に残っていた。

ちなみに「修学院離宮」は、江戸時代に後水尾天皇により造営された山荘で、一般的に、修学院と言えば修学院離宮を指す場合のほうが多いのかも知れない。

話は九州に飛んで、

福岡県との県境に近い、佐賀県の吉野ヶ里町に「修学院」という看板がある。

頻繁に通る場所ではないが、通るたびに気になっていた。

どういう場所なのか身近で話題に上ったこともなく、細く急な登り坂の上にあることから入る勇気もなかった。

年末、比叡山下の知人に呼ばれ1週間ほど滞在した。あちらこちらに動いたのだが、修学院は比叡山の麓にある地なので、修学院の看板をたびたび目にしていた。

そんなことがあったからだろう。九州に戻り、たまたま地図を見ていると吉野ヶ里町の「修学院」が目に入った。

正式には「背振山積翠教寺修學院」というらしい。

一体どういうう場所なのだろう。

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なんと京都の修学院とつながった!

背振山は「背振千坊」と称された山岳仏教の聖地なのだった。

幼い頃からあまりにも身近にあって、最後は背振山の麓で暮らしたいと思っていたけれど、背振山については深く考えたこともなかった。

ただ、小学校6年生に時に、照葉樹林の中に分け入り、湧水をまたぎながら初めて山頂まで登った時の高揚感は忘れることができない。

「背振山」という名は、西暦552年、山頂に辨財天が降立った際、給仕の龍が背を振ったという伝説が由来とも言われている。

「脊振」表記になっている場合が多いが、元々は「背振」!

背振山は、709年、元明天皇より勅命を受けた湛誉上人により開山され、山の中腹には「誉朗寺」が建立された。

のちに上宮『東門寺』・中宮『霊仙寺』・下宮『積翠寺』(現在の修学院)の三ヶ所を司寺とした数多くの寺が散在する大伽藍(僧が集まって仏道を修行する清浄閑静な場)となる。

比叡山・高野山・英彦山と並び山岳仏教の聖地として栄えた背振山は『背振千坊・嶽万坊(たけまんぼう)』と称された。

筑前と肥前にまたがり、数々の名僧が入山修行した大僧園を誇ったが、繰り返される戦乱の中でしだいに衰微していく。

1600年、鍋島直茂公により積翠寺が再興された際に、京都の修学院の地にある「曼殊院門跡」(まんしゅいんもんせき)より「修学院」の院号を賜り、1610年には曼殊院門跡の筆頭末寺となっている。

曼殊院は、700年代最澄により、鎮護国家(国の災をしずめ安泰にする)の道場として比叡の地に創建されたのが始まりで、室町期以降は、皇室一門が住職を務める門跡寺院となった格式高い寺院。

「背振山積翠教寺修學院」は、藩政時代には、肥前国の鬼門除け・肥前国の安穏祈願寺として、代々鍋島家親族が住職を務め、厚い庇護を受けていた。

廃藩置県により衰退したが、明治8年、脊振山を守っていくため、坂本地区の檀徒を修学院積翠教寺に編入し維持継承されている。

上宮、中宮が現存していない現在では、この地の歴史を伝える唯一の寺院である。

最澄との繋がり

背振山は、玄界灘から見える最も高い山で、博多港に入る船の目印となることかもあり、唐に渡った空海、円仁、円珍、宋に渡った栄西など多くの人々が入山して航海の安全を祈願したと伝えられている。

比叡山延暦寺を建立した日本天台宗の開祖最澄もまた、804年7月6日に遣唐使として肥前国松浦郡田浦から出港したが、その際、海上安全祈願のため背振山に入山している。

翌年5月18日帰国の際には対馬から入り、その教えを広めるため、中宮に講堂、龍樹堂、乙天の宮殿を建立。下宮に薬師如来を彫刻し安置している。

現在、積翠教寺修學院は比叡山延暦寺の末寺となっている。

これはたまたまかもしれないが、最澄の生誕地は大津市の坂本、比叡山延暦寺の地名も坂本である。

吉野ヶ里の修学院のある場所一帯も住所表示は変わっているが、坂本地区言われている。

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