シュタイナーは食べることをどのように捉えているのだろう?

シュタイナーの作った食事の言葉

大地の夜の中で植物が芽生える
空気の力をとおして葉が出る
太陽の力を通して果実が実る
そのように魂は心の中で芽生え
そのように精神の力は宇宙の光の中で芽吹き
そのように人間の力は神の姿の中で実る

人智学では食べることを非常に重要視している。

ただ、”これを食べるべき、あれは食べるべきではない”というようなものではない。

シュタイナーは扇動的振る舞いも、あるものを支持したり非難したりということもない。

人智学=精神科学は「真実のみを伝えるもの」その先は個人の領域という姿勢が一貫している。

シュタイナーの一筋縄ではいかない難解さも、個人の領域のために意図されたものかもしれない?

人智学=アントロポゾフィー=精神科学は、科学によって精神性を追求していく思想で教育・建築・芸術・医療・農業など幅広い分野で影響をもたらしている。

精神科学では、唯物論とはまた違った意味で「人間とは食べるところのものである」という言葉を使う。

鉱物も植物も我々の周囲にあるものは外面的に見れば物質だが、その背後には霊的なものが存在する。

精神科学にとって、全ては霊的なものの現れという理解だ。

食べるという行為は食べ物の背後にある霊的なものも一緒に食べている。

精神科学が食べ物の研究に重きを置いているのは、その研究を通して人間と自然の関係を見通すことができるからだという。

人間の構成要素

食べ物を狭い範囲で考えると、人間は食べ物のほとんどを動物界と植物界から取っている。多くの人はこの両方から取っている。

人間は理論的にはそう考えていないとしても、実際的には多かれ少なかれ無意識のうちに自分の体を単なる肉体と考えているが、精神科学にとって人間は物質的身体だけではない。

物質的身体・エーテル体・アストラル体・個我の4つの部分から成り立っている。

エーテル体は、物質的身体の基盤になるもので、肉体の維持のために常に戦っている。にもかかわらず、エーテル体が構築したものが、内面では繰り返し破壊されている。

この崩壊を引き起こしているのがアストラル体。

アストラル体は太陽の光と対峙する内的光で、この部分的破壊を引き起こすことで、人間が植物のようなあり方するのを妨げ、人間を意識的にする。

アストラル体は我々の心魂の営み〜情熱・衝動・欲望・表象〜 の全てを担っていて、その健康は極めて重要である。

個我は自己意識の担い手、この部分によって人間は地上の事物全てを凌駕している。

人間には物質的肉体という可視の部分とエーテル体・アストラル体・個我という不可視の部分があるわけで、これらはいつも入り混じって、ともに活動している。

物質的肉体は不可視の部分を表現するものでもある。

人間はエーテル体を植物と共有し、アストラル体を動物と共有している。

栄養摂取や生殖に仕える器官全てはエーテル体を表し、腺などはエーテル体によって作られた。

神経組織はアストラル体を表わし、

血液は個我を表している。

植物の構成要素と人間と植物の関係

植物は、物質体とエーテル体から成り立っている。

植物は無機的なものから自分の体を作り上げる素晴らしい力を持っている。

人間は酸素を吸って炭素を吐き出し、植物は、炭素を受け入れ、炭素から自らの器官を形成し、酸素を放出している。

このような働きを行うため、植物は太陽の光を必要としている。太陽なしには自らの器官を構築することはできない。

太陽の光を助けて植物を構築するのは植物のエーテル体。

人間は太陽の光が構築した植物から栄養を取る。

呼吸に関して、人間は植物と逆のプロセスを生じさせているが、栄養についても同様のことが言える。

人間はある意味で植物と対照的なことを行わなければ、物質的身体の器官を発展させることができない。

植物の中で構築されるもの全てが人間の中で再び構築される。

アストラル体がその一部を常に破壊するが、そのことによってアストラル体は、人間に神経組織を組み込み、人間は意識的なものになる。

植物の有機体構築のプロセスには霊的なものが基盤になっている。

精神科学は、光となって現れるものは霊的なものの外的表現に他ならないことを示している。光を通して霊的なものが常に我々に流れてきている。

植物の生と人間の生は共同している。

肉食と菜食の作用

人間は食べ物を通して動物界と関係を持つ。

人間の食料となる動物のなかでは、アストラル的なプロセスはすでに遂行されている。

植物からは清浄で新鮮なままに摂取されるものが、動物のなかでは部分的に変化し、既にアストラル的になっている。

動物もアストラル体と神経組織を自らのうちに組み入れているので、人間は無垢なものを食べるのではなく、動物のアストラル的な力を受け入れたものを食べることになる。

ならば人間はその分の力を節約できるのではないかとも思えるが、それは正しくない。

肉食をすると、人間は動物が植物を食べて処理したプロセスを省略して、その続きのプロセスを引き継ぐ。

ということは、人間が本来持っている処理能力の一部が使われないまま蓄積されていき、人体の内部で活動する。

その力は過剰に活動し、人体を内部で破壊することになる。

血液と神経に突進する。

動物は素材を不完全な形で消化しているので、人間が肉食すると動物のアストラル体を通して生じたことが人間の体内で継続される。

肉食することにより人間は自分の神経組織に影響を与えるものを摂取することになる。

肉食は独特な方法で人間の神経組織とアストラル体に働きかける。

菜食の場合は神経組織が外から影響を受けることはない。

人間が自ら神経組織を構築するなら、精神的・霊的なものに敏感になる。

事物の壮大な関連を見上げることができるのは菜食のおかげであり、怒り・反感・偏見に狂うのは肉食のせいである。

しかし、シュタイナーは菜食を扇動するものではない。

現実的に地上の人間は堅個でなければならず、個人的になるべきである。人間が個人的興味を持つのは肉食のおかげである。

戦争をしたり、共感・反感を持ち感覚的情熱を持つ人間がいるのは肉食にその原因がある。

人間がその狭い興味に夢中にならず普遍的なものに興味を持つのは菜食のおかげである。

菜食を好む民族は霊性への素質を有し、そうでない民族は勇敢で果敢である。

勇敢さ果敢さというものも人生には必要で、個人的要素なしでは持つことができない。

人間は肉食によって個人的な興味に没頭できるが、存在を傍観する感覚は濁る。全体の関連を見通すことができない。

その人が何を食べているかだけではなく、その祖先が何を食べていたかにも影響される。祖先が基礎付けたものを一つの人生で覆すのは往々にして困難である。

菜食と肉食は別の働きをする。

肉食の影響下にある物質的身体のプロセスを見ると、赤血球は黒く重くなる。血液は凝固しやすくなる。塩やリン酸がたやすく混合する。

菜食の場合は血球の沈降はずっと少なく、そのため思考を個我によって支配できる。

その反対に重い血液は、肉食によってアストラル体に組み入れられたものに隷属していることを表している。

人間は植物界との関係を通じて内的に強くなる。

肉食をするというのは異物を取り込むことで、その異物は人間の中で独自のプロセスを辿っていく。

神経組織は外から入り込んだ異物の影響を持続するので、荒廃して様々な神経病を発症する。

菜食を重視することにより、肉食過多による害を避けることができる。

タンパク質を植物から摂取すると、神経組織を新鮮にする力を発展させることができる。

我々は一面的であるべきではない。

ミルクと酒

タンパク質が牛乳のようにまだ情熱に燃え立たないものから摂取されるのは一つの進歩である。

乳児が母乳だけで生きられるように、母乳の中には乳児が必要とするもの全てが含まれている。

牛乳の生産には特にエーテル体が関与しており、アストラル的なものは含まれていない。

そのため牛乳を飲んでいるとエーテル体の力、人々に治癒的な作用を及ぼすことのできる力を自分の中で発展させることができる。

アルコールは、本来の植物プロセスが、光の影響によって生じることが終了した時にできる。

そうすると、肉食よりも低次の段階で遂行されるプロセスが生じ、肉食よりも大きな影響を人間に及ぼす。

肉食の場合、人間は肉の中にあるものをアストラル体にまでもたらすが、アルコールの場合、アストラル体を通して生じるべきものが、アストラル体の関与なしに直接個我と血液に影響するのだ。

個我の自由な決意によって生じるべきものがアルコールによって生じる。

酒を飲む人が食べるものが少なくて済むというのはある意味本当で、アルコールの力が血液に浸透するのだ。

酒を飲む人の場合、アルコールが思考し感受する。個我の支配下にあるべきものをアルコールに引き渡してしまうということになる。

多様な健康

人間は個人的な存在であり、人間の数と同じだけの健康がある。

同じものがある人を癒し、ある人には害を与えるということがある。人間は個人的な本性を尊重しなければならない。

大事なのは、自分の必要としているものを自ら感じ認識する可能性を持っていることである。

しかしこの力を獲得するには、現代社会に浸って生きている我々にとってはなかなかハードルが高い。

病気に対してのアプローチも様々な対処法がある。

特に大学医学とホメオパシーでは、全く逆のアプローチをする。それぞれがまたいくつもの派に分かれ、それぞれの立場で様々な見解を述べている。

健康の問題は物質的身体の支障だけでなく、もっと高次の心根的・精神的部分の中で生起するものも考察することが大事である。

物質的身体の健康の土台は、感情・感受・衝動・欲望からなるアストラル体で、その人が喜び・高揚・ひらめきを経験できる環境におくことが大事である。

食事がおいしいと感じることが健康に影響する。

自分の体の欲求を正しい方法で発展させた人は、正しいものを美味しく感じ、好きであり、体にも有益である。

正しい共感によって自分の健康に役立つ光と空気、正しい環境を見出し、正しい時間に空腹を覚える。アストラル体と個我が健康に寄与すべきものに導くのだ。

アストラル体が物質的身体とエーテル体の本来の造形者・彫刻家である。

物質は精神的なものが凝縮したもの。精神的なものはふたたび物質に作用を及ぼす。

明晰で明るい思考、包括的思考が健康の条件である。

全宇宙、超感覚的なものにも関連する包括的な世界観を通してのみ呼び出される思考が、健康の前提条件である。

健全な身体に健全な心魂が宿る。

唯物論的思考は荒廃を呼び起こし、精神科学的思考は内面を満たす。

人間は内面から創造すべきで、そうしないと生産的力が荒廃し、存在自体が外的な印象によって押しつぶされる。

外からの印象に、内面が立ち向かわなければならない。人間は外界の威力から自分を守り、外には見えない活動を展開しなければならない。

まとめ

シュタイナーはなかなか一筋縄ではいかない。

一つの事柄が微妙に言葉を変えて繰り返しされることも混乱を生じさせるし、結論があるわけでもない。

何度も行ったり来たりしながら、少しづつ自分の中で組み立て直しながら、理解できることを積み重ねていくような作業は時間がかかる。

そうしているうちに、意図してあえて難解さを演出しているのではないかと感じたりもする。

「精神科学は真実のみを伝えるもの。その先は個人の領域」
自分の中で自ら構築したものでなければ役に立たないということだろう。

この内容は十数年前に求めた「身体と心が求める栄養学」の後半の部分である。

今の自分に理解できる部分をピックアップしたり並び替えたり試行錯誤して
ようやくこの本の内容をある程度理解できたような気がしている。

シュタイナーはミルクとはちみつの摂取を推奨しているが、現代ではそのどちらも問題が多い。牛乳の生産に関しては飼料、薬品、搾乳量など問題が多すぎて躊躇するところである。

最近名前を耳にする事の多い「なかほら牧場」は「山地酪農」で完全放牧。牧草ではなく野草や野シバや木の葉などを食べて暮らしているようだ。

交配・分娩・哺育まですべて牛任せの野生牛。お乳が張るとと搾乳小屋にやってくることだけはおやつで躾けられているようだ。

搾乳量も計算してみたら一日10リットルにも満たないようだし(シュタイナーは一日一頭30リットル以上を搾乳するのは虐待であり、やがて酪農全体が崩壊すると言っている)薬品の心配もない。

こういう酪農が主流となるような世の中であれば幸せなのだろうが、なかほら牧場にもどういう形かはわからないが別企業が入ってきているし、知り合いの志ある生産者も、この現実の中で、経済的にも肉体的にもご苦労されている。

この内容は
「身体と心が求める栄養学」著者/ルドルフ・シュタイナー 訳者/西川隆範
の内容を抜粋整理したものです。

「身体と心が求める栄養学」は2017年に新装版が出ているようなので、
興味のある方は下記よりどうぞ。


身体と心が求める栄養学 [ ルドルフ・シュタイナー ]

前半はこちら↓

シュタイナーが説く食べ物と人間との関わり。
シュタイナーは難解で理解し得ない部分も多いが、その内容はは多岐にわたり、宇宙の根源的本質を見ているであろうその思想は興味深く、示唆に富んでいる